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リレーエッセイ 第3回            

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女性だからと意識せず、住んでいて楽しい町内会をつくる!

                          工藤 八重子

 保戸野地域の活性化を図るため「菊谷小路いきいき町づくりの会」を立ち上げたのは7年前。この3年間は、コロナ禍で大勢が集まることは出来なかったが、小さな活動は地道に続けている。

そんな中、保戸野地域には伝統的な「お祭り」がない!

コロナ禍ではあったが、「菊谷小路いきいき町づくりの会」を母体として2年前「保戸野いきいき音頭」を作ろうと実行委員会を立ち上げた。老いも若きも一緒に歌いおどり地域を盛り上げる役割を持っていると考えたからです。今年3月31日にCD製作が完成し,まもなく振り付けも仕上がって、この5月、6月とあちこち出前振り付け、踊りお披露目などてんやわんやの日々です。

 さて、この音頭が地域に根ざし、ゆくゆくは保戸野独自の「盆おどり大会」開催となるよう、広報手段として完成記念誌(記録誌)の作成を企画し、この音頭に関わった方々のメッセージ掲載のための原稿集めや、「保戸野の歴史」にふれるページなどを設け、今その資料集めをしているところです。

保戸野の地名はいつからそう呼ばれていたのか。

一時、「歴女」などとブームになっていたがまさしくそれ。にわか「歴老女」と化し、老眼鏡、虫めがねを友に資料をあさりまくっている。資料はたくさん集めたものの、はたしてどうまとめるのか頭を悩ましているところです。

 慶長7年(1602)佐竹義宣氏が水戸から秋田に国替えされ、はるばると長い旅を続けて土崎湊城(今の土崎神明社)に入城。湊城は古くから安東秋田氏の平城であったが、義宣氏にとってはあまりにも狭い防御の薄い城郭であったので、早速適地を求めて新城を築くことになり、寺内山と保戸野村山(神明山)の候補が上がった。

 義宜氏自身の実地検分の結果、寺内山より保戸野村山(神明山)が勝っていたが、仁別川(旭川)を堀替えることで保戸野村山(神明山)に決定。保戸野村山(神明山)は今の千秋公園のことである。

 今から400年以上も前から既に「保戸野」の地名があったことを知り単純に感動した。保戸野は楢山と並んで、安東秋田氏領の当時の山と野の自然地名だったという。

 まずは、これから何日かは ほどの、ほどの・・・。保戸野の歴史と格闘する日々が続きます。記念誌完成予定は8月を目指しているところです。

うれしいことに、8月19日(土)に保戸野学区子ども会育成会が共催して「ほどの盆おどり」大会開催が決まりました。ヤッター!!

参考資料

『久保田城ものがたり』 著者:渡部 景一  発行者:安倍 甲  発行所:無明舎出版     

『佐竹氏と久保田城』  秋田の城の歴史と物語   無明舎出版

『久保田城下町の歴史』 著者:渡部 景一 発行者:安倍 甲  発行所:無明舎出版

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